商品か芸術作品か マズルカ全90曲



ショパンは生前、大変多くのマズルカを作曲しました。その内、現在は58曲が全集として一般的です。しかし、作品につけられた番号を見ると各出版社間で統一されておらず混乱を極めています。一例をあげれば、ヘンレ版とパデレフスキ版では作品の並びが違うため番号に食い違いが生じ、エキエル版は生前・死後と分けて出版されているため番号付け自体がありません。なぜこのようなことになってしまうのか、そう考える人もいるかもしれませんが、これは仕方のないことだと割り切るよりほかはないでしょう。つまり、それほど楽譜出版社が我々に与えている影響は大きいということです。

普段我々が目にしている楽譜は、出版社の選曲に委ねています。しかし、それを意識している人は少ないのではないのでしょうか。例えば音楽を鑑賞する時、CDを聴いたりコンサートに出かけたりするとします。この行為は一見、我々が自発的に行動しているかのように見えますが、用意された選択肢の中から選ばされているだけだと見ることもできます。このように鑑賞する側は常に、目に見えない規制に縛られています。では、肝心の作品の方はどうでしょう。
「ショパンは推敲に推敲を重ねて」という言い回しはよく耳にします。しかし、この言葉をそのまま受け取ると取り返しのつかない誤解を生んでしまいます。つまり、我々はショパンの意図した通りの物を見ているという錯覚に陥ってしまうのです。作品の本当の価値を知るには、楽譜出版社が用意した解説を読むよりも、むしろそれを読む我々の意識の中で、一体何が当たり前で、それが何故当たり前なのかを考えた方がよいような気がします。そこで今回は、Op.6とOp.7のマズルカを例にとって、19世紀の楽譜出版事情を探りながら、作品と出版社との関わりを考えてみたいと思います。

入れ替わった番号の謎
Op.6の4つのマズルカは1832年にライプツィヒのF.Kistner社から出版され、同年、Op.7の5つのマズルカがやはり同じF.Kistner社から出版されました。パリでは両方ともM.Schlesinger社から翌年の1833年に出版されているのですが、この時なぜかOp.6が5つのマズルカとして出版され、Op.7は4つのマズルカとして出版されました。入れ替わった作品はOp.7の5曲目、ハ長調がOp.6の5曲目として出されたようです。ちなみにエキエル版ではこのフランス初版の曲順になっています。
なぜドイツ版とフランス版で曲順が入れ替わってしまったのでしょうか。両社間に連携が取れていなかった訳ではありません。著作権を守る国際的な条約がまだ確立されていない時代でしたので、欧州連合なる各社任意の提携が取り交わされ、楽譜の表紙にも両社が提携を結んでいる旨と社名が明記されています。ショパンと両社がどのような形で取引をしていたかは分かりませんが、恐らくパリ在住のショパンがドイツに強いコネを持つシュレサンジェを通して、ライプツィヒでの出版を取り付けたのではないかと想像されます。

F.Kistner社の販売戦略
曲が売れる、売れないは作曲家だけでなく楽譜出版社にとっても死活問題です。当時の銅版印刷では刷れる冊数が限られていたとはいえ、やはり最低限の部数はさばかないと利益はあがらなかったはずです。ではライプツィヒのキストナー社は売るためにどのような策を講じたのでしょう。
一部の識者から評価されてたとはいえ、まだまだ新人のショパンです。掃いて捨てる程いるピアニストの中の一人でしかありません。しかも楽曲はマズルカという辺境の地の舞踏曲です。まずは4曲で様子をみて、売れ行き如何で次を決めるというのが定石だったのではないでしょうか。
Op.7が5曲というのも何となくキリの悪い数字です。おそらくこれはOp.6と同じ4曲に+1曲だったのではないのでしょうか。「ご好評につきショパン氏が贈るマズルカ舞曲集第二弾。今回は1曲オマケもついて、お値段は据え置き」などという広告が当時の新聞に載ったかどうかは定かではありませんが、今現在の音楽状況と照らし合わせてみると納得できるものがあるかと思います。ちなみにOp.8の三重奏曲とOp.9のノクターン集も同じ1832年出版ですが、プレートナンバーはOp.9が一番若いので、作品自体はノクターンが先にキストナー社の元に届いたか、もしくは同時に全て届いていたのかもしれません。いずれにせよ、後から出版の順序を操作された可能性は否定できないのです。もちろん全てが同時出版だったのでなければの話ですが。

商品か芸術作品か
フランスにおいてはどうだったのでしょう。1833年のショパンはパリ・デビューこそ済ませましたが、ピアノ教師としてはこれからという時期でした。購買層とレッスン料の兼ね合いで最初の出版を5曲入りにしても不思議ではありません。たとえショパンが望まなくとも、海千山千のシュレサンジェがそそのかしたというのはありえそうな話です。つまり曲数にショパンの置かれている状況が如実に映し出されているのです。余談になりますが、Op.7の一曲目、変ロ長調のマズルカだけは1835年にショパンの祖国ポーランドでピースとして出版されています。これを曲が良かったから出版されたのだと考えるのは、いささか安易過ぎるでしょう。むしろ、家庭にピアノが置かれている一部の階級層向けではなく、広く市民層に売れるようにするための価格の面での配慮の方が大きかったと考えられます。1831年の11月蜂起後の世相を考えれば、自然に発生した需要だったのかもしれません。

以上のような考察は憶測の域を出ません。作品の価格については当時のカタログや音楽年鑑で確認すれば確実なデータを得られると思いますが、それはまたいずれ機会があれば調べてみたいと思います。ただ、一つだけ確かなことは、出版社はどんなに立派な芸術作品であっても採算を度外視するような博打はしません。売ることありきが前提で出版は成り立つということです。そしてこれは新人であるショパン自身もよく分かっていたことでしょう。
今回、作品の内容については触れませんでしたが、芸術作品とはいえ世に出るためには「商品」の側面を併せ持つのは当たり前のことです。ではショパンの作品も「ただの売れ筋の商品」だったのでしょうか。それは考えるまでもありません。作品の持つ本当の価値は、長い時間を経てすでに時代が答えを出してくれているからです。

残り32曲の内訳:
59.ト長調:「マズルどんな花」(作曲年:1829、初版:1856,K.W.Wojcickiego、自筆譜:プラハ国立博物館)
60.調性不明(1830年12月22日付け家族宛の手紙に書かれている。自筆譜:不明)
61.調性不明:ルドヴィカの結婚のために(作曲年:1832年9月10日付けカラサンティ宛ての手紙に書かれている。自筆譜:不明)
62.調性不明<<Plate´rise´>>:ウラディミール・プラテルのために(作曲年:1846年12月30日(?)付けグジマワ宛の手紙に書かれている)
63.調性不明(1852年7月2日付けジェーン・スターリングからルドヴィカ・イエンジェイェヴィチョーヴァに送られたリストのなかに2つのマズルカの事が書かれていて、M.カウォヴィツァ夫人(?)に送られたものらしいです。[2 Mazurkas])
64.調性不明(1852年7月2日付けジェーン・スターリングからルドヴィカ・イエンジェイェヴィチョーヴァに送られたリストのなかに2つのマズルカの事が書かれていて、M.カウォヴィツァ夫人(?)に送られたものらしいです。[2 Mazurkas])
65-68.調性不明(1854年3月14日付けフォンタナからルドヴィカ宛てに送られたリストの中に4つのマズルカの存在が書かれています。詳細不明[4 mazurki])
69-75.調性不明(フォンタナからルドヴィカに送られたリストの中に7つのマズルカの存在が書かれています。詳細不明[7 mazurkow])
76.調性不明(M.A.Szulcaの伝記に書かれているようです。詳細未確認[MAZURY])
77.調性不明:ブライトコプフ&ヘルテル社のために(いくつかの作品と併記。詳細不明です。[Mazurka?])
78.ハ長調(1911年にペテルスブルグで発表されたアレクサンドラ・コピティアイェヴァの論文に書かれているそうです。詳細未確認[mazury})
79.ト長調(作曲年:1826,出版:マインツのB.Schottから出されていたようですが詳細未確認)
80.調性不明(ルドヴィカの目録に書かれているようですが詳細不明)
81.調性不明(作曲年:1832年9月14日付けの手紙(?)に書かれているようですが、手紙自体の存在も含め詳細不明)
82.調性不明:デルフィーヌ・ポトツカ夫人に献呈(作曲年:1848-1849、ヤナ・コシュミアナ(?)がこの事について書いてるようですが詳細不明)
83.調性不明:ニコライ夫人に献呈(ショパンのマズルカとして1874年にAugener&COから出版されていたようです。詳細不明)
84.調性不明(1847年5月18日、ルビオー夫人に歌曲と共に1つのマズルカを贈ったようですが詳細不明です)
85.嬰ヘ長調:ゴットハルト(ウィーンのGotthardによって出版されたとニークスの伝記に書かれています。信憑性は薄いようです。詳細不明。下のブラヘトカとの作品との関係も未確認)
86.嬰ハ短調(音楽愛好家による偽物がワルシャワのショパン協会に保管されているようです)
87.ニ長調(作曲年:1820年、出版:1910年Kurierze Warszawskim、自筆譜:紛失、楽譜は全音楽譜出版社刊「ショパンピアノ遺作集/関孝弘」に収録)
88.嬰ヘ長調アレグレット:マリー・レオポルディーヌ・ブラヘトカ嬢に献呈(作曲年1829年?、出版:1868年頃、自筆譜:不明、楽譜はエキエル版に“アレグレット”として31小節版が収録、他に159小節版もあるようです)
89.変ロ長調(作曲年:1835年9月2日、断片のみ、詳細不明)
90.変ロ短調(Jana Tomasza Sttopnickiのアルバムに写譜者不明の楽譜が残っているそうです。詳細不明)

MAZUREK DABROWSKIEGO/PWM/1999
MAZUREK DABROWSKIEGO/PWM/1999
ポーランドの国歌「ドブロンスキのマズルカ」にショパンが伴奏を付けたものです。ワルシャワのショパン博物館に保管されていた自筆譜を元に出版されました(自筆譜の写真付き)。一応、上のリストには加えませんでした。

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ピアノの詩人ショパンの文献目録です。ショパンに関する書籍を著者名、出版社名、発行日、ページ数とまとめて紹介しています。また海外の珍しい古書や楽譜なども紹介しています。