「私の生徒」 ロンド全5曲



クラシックの世界でロンドは大変ポピュラーな形式ですが、その起源は中世までさかのぼり、みんなで輪になって歌いながら踊るところから日本では「輪舞曲」と訳されたりしています。ショパンの作品の記念すべき第1番を与えられているのもこの「ロンド」なわけですが、管弦楽伴奏付きも含めて全部で5曲作られ、珍しいことにその全てが出版されています。作曲年代を追って見てみると、
1825年:ロンドハ短調 Op.1(1825年出版、ブジェジナ社)
1826年:マズルカ風ロンドヘ長調 Op.5(1828年出版、ブジェジナ社)
1828年:ロンドハ長調 Op.73(1855年出版、シュレジンガー社)※最初は独奏用に作曲され、すぐに2台のピアノ用に編曲。現在は2台版の方が一般的。楽譜は独奏、2台用ともPADEREWSKI版に収録。
1828年:演奏会用ロンド《クラコヴィアク》ヘ長調 Op.14(1834年出版、キストナー社)
1832年:ロンド変ホ長調 Op.16(1834年出版、シュレサンジェ社)
と、見ての通りほとんどが10代の頃に作曲されています。個人的にはこの中でクラコヴィアクが一番好きなのですが、ここでは最後に作曲された変ホ長調のロンドに注目してみましょう。

出版年1834年:
変ホ長調のロンドが作曲されたのは1832年と考えられています。若い頃の作品ではありますが「クラコヴィアク」から少し間が空いているようです。そして出版は1834年3月にパリで出版されました。ショパンにとってこの1834年という年は大変様々な出来事が重なりました。この年を前後にショパンは精力的に演奏活動をこなし、年末に開催されたベルリオーズ主催のハリエット・スミスソンを救済するための演奏会に出演、その僅か2週間後にはリストと共演しています。プライベートなことでは春にヤン・マトゥシンスキがパリへ上京し一緒に暮らし始め、マリアの母からはジュネーヴの別荘へのお誘いの手紙が届きます。この後のマリアとのロマンスは周知のとおりです。パリに到着して3年、生活も徐々に安定しはじめたこの時期は、まさに公私ともに輝いていた時代ともいえるでしょう。

ショパンと裁判:
1834年の4月、ショパンにとって珍しい出来事が起きます。楽譜出版社のシュレサンジェとピアニストのエルツとの間に諍いがあり、裁判沙汰になってしまいます。ショパンはその時シュレサンジェの証人として出頭したそうです。シュレサンジェは1832年にショパンと全ての作品を出版する契約を結び、ドイツでの出版も手助けしたという、いわばショパンにとって恩人のような存在でした。ただこの事件はショパンにとっても不名誉なことだったのか、あまり多くは語られていません。ちなみにエルツはショパンにあまり好意的ではありませんでしたが「ヘクサメロン」を競作しています。

献呈者カロリーヌ:
この曲は弟子であったカロリーヌ・ハルトマンに献呈されています。カロリーヌ・ハルトマンは非常に才能があったといわれ、ショパンの他にリストにも師事したようです。カロリーヌの父親は実業家でしたが大変な好楽家で、自分で管弦楽団を主宰するほどの傾倒ぶりでした。ただ残念なことにカロリーヌに関する詳しい資料はあまり多くは残っていないようです。何故なら彼女は変ホ長調のロンドが出版された1834年に26歳という若さでこの世を去っているからです。この作品が出版されたときに彼女が生きていたのか亡くなっていたのかは残念ながら資料が少なく分かりません。ただこの楽譜には他の曲には見られない、唯一の特徴が残されています。それは楽譜の表紙に「dédié à son Elève(私の生徒に捧げる)」と書かれているのです。わざわざ表紙に「私の生徒」と書かれているのはこの「ロンド変ホ長調 Op.16」だけで、他の曲には見られません。病の生徒を励まそうと思ってそうしたのか、あるいはすでに亡くなった才能のある弟子に対する敬意の表れだったのか。こう考えるのは深読みのし過ぎでしょうか。

KRAKOWIAK CONCERT RONDO For piano and orchestra
「KRAKOWIAK CONCERT RONDO For piano and orchestra/EDWIN F.KALMUS/NY」

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ピアノの詩人ショパンの文献目録です。ショパンに関する書籍を著者名、出版社名、発行日、ページ数とまとめて紹介しています。また海外の珍しい古書や楽譜なども紹介しています。