スフィンクスは2度問いかける? ソナタ全3曲



ショパンのピアノソナタ第2番変ロ短調は葬送ソナタとして親しまれ、これまで多くのピアニストが演奏し、繰り返し録音されてきました。その録音の多さは佐藤泰一さんが著書『ショパン・ディスコロジー』の中で、「ソナタ第2番百演奏」と題して100種類の演奏を評論されていることからも分かります。この録音の全てを聴くことは難しいと思いますが、聴いた限りでは反復の指定されている部分を忠実に演奏しているものと省略しているものの2種類に分かれるようです。普段、なにげなく聴き流している部分ですが今回はこの反復について考えてみたいと思います。

反復を省略する理由
この作品では全楽章を通して4カ所、反復が指示されています。第一楽章提示部の繰り返しと、第ニ楽章の144小節から184小節までの部分、第三楽章31小節から38小節と39小節から54小節にかけてのトリオの部分です。これは省略してもよいものなのでしょうか。結論を先に言えば、基本的に反復は省略してはいけません。理由は作曲家がわざわざそう指示しているからです。特に「1(1番括弧)、「2(2番括弧)と別々に小節を設けて繰り返しを指示している場合は大幅に小節数が変わってくることもありますので注意が必要です。例えばシューベルトの長大な遺作のソナタ変ロ長調の第一楽章など9小節も別の楽節が挿入されており、省略してしまうと全く別の曲のようになってしまいます。にもかかわらず、省略して演奏するピアニストはいます。それはいったい何故なのでしょうか。

まず演奏家がなぜ省略するのかを考える前に、反復について考えてみたいと思います。反復とは記号で指示されているものばかりとは限りません。前の小節と全く同じ音型を繰り返しているものはよくありますし、パターン化された伴奏なども一種の反復といえます。こういう楽曲の進行上における繰り返しは省略できない場合が多いのですが、進行を一旦止め再度繰り返すような大規模な反復の場合、演奏時間に大きく差が出る事があります。なので、ピアニストの意思にかかわらず試験の時などは省略することと最初から決められてる場合もあります。省略するしないは最終的には演奏するピアニストに委ねられますが、いずれにせよ必ず何か理由があるわけです。

ドイツ系教師とフランス系教師
あるピアニストに聞いた話によると、ドイツ系の教師の場合は繰り返しの部分を演奏するよう厳密に指導し、フランス系の教師の場合はその辺りが感覚的で、あまり厳密ではないというお話をされていました。なんとなくイメージは伝わってきますね。その感覚的であるはずのフランスを代表する名ピアニスト、アルフレッド・コルトーは自ら校訂した版で、第一楽章の提示部にだけ注意書きとして「反復は省けない」と書いています。これは裏を返せば、第2、第3楽章の反復は省略可能ということです。この違いは何なのでしょう。ここで音楽学的な分析は烏滸がましいので避けますが、これまでの話をまとめると、
・基本的に反復の省略はよくない。
・(コルトーによると)特に第一楽章提示部の繰り返しは省略はできない。
ということになります。
では、これまで録音してきた演奏家の場合、省略しないで演奏してきたピアニストが「正しい」演奏をしてきたということになりそうですが、実はもう一つ問題が残されています。

反復することで省略されてきた謎
ポーランドのナショナル・エディションではこの第一楽章提示部の繰り返し部分に修正が加えられました。これまでの版では4小節と5小節の間が反復記号で区切られ105小節から5小節目まで戻って繰り返すように演奏されてきました。ところが、ナショナル・エディションでは4小節と5小節の間の反復記号がなくなり、冒頭Graveの序奏部分から繰り返すようになっています。パデレフスキ版ショパン全集には筆写譜の写真が掲載されていますが、確かに下の段には点々がありません。つまり、反復してきたつもりが頭4小節抜けてたことになります。これではせっかくきちんと反復を行ってきた演奏家が気の毒なような気もしますが、実は冒頭部分から繰り返して録音を残している演奏家もいます。それは他でもない、日本を代表するピアニスト内田光子さんです。彼女は87年にこの録音を残していますが、ライナーの解説には「提示部を終える解決しないカデンツァは、ゆっくりした冒頭の小節が始まる明確な変ニ長調に導かれるほうがより論理的である(ミッシャ・ドナー)」と書かれています。さすが世界のウッチーですね。

では最後に演奏家が省略してきたことについてもう一度考えてみます。 音楽之友社から出版されているレオニード・クロイツァーが校訂した楽譜では4小節と5小節の間が繰り返し記号ではなくただの二重線になり、提示部終わりの105小節目に注意書きとして「この反復は不当と思われる」と書かれています。このことについて詳しい解説はされてませんが、恐らく上の内田光子さんの場合と同じく、従来通りの平行短調への解決に疑問を持っていたためだと予想されます。つまり、これまで省略してきた多くの演奏家も〈省略〉ではなく〈保留〉として、納得できないまま演奏はしないという(聴衆も含めて)作曲家への最大限の敬意の表れとして〈省略〉することを選択したのかもしれません。

全3曲の内訳:
ピアノのためのソナタは全部で3曲、全て作品番号が与えられています。
1828年:ソナタ 第1番 ハ短調 Op.4(1851年出版、ハスリンガー社)
1837年〜39年:ソナタ 第2番 変ロ短調 Op.35(1840年出版、トルプナ社)
1844年:ソナタ 第3番 ロ短調 Op.58(1845年出版、メソニエ社)

ソナタの小ネタ:BeArtonから出ているエキエル版によるCDで演奏しているピオトル・パレチニは第一楽章提示部の繰り返しを省略しています。録音の時点では、やはり保留だったのでしょうか。

F.CHOPIN Marche funèbre
F.CHOPIN Marche funèbre (extr. de la Sonate pour piano no2 Op.35)/Version simplifiée pour piano H.G.HEUMANN/Editions Henry Lemoine
葬送行進曲を簡単にアレンジした楽譜

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